MENU

今、ここにいる“私”は本当に私なのか?

朝、目を覚ました瞬間──「今ここにいる私」は、昨日の私と本当に同じだと言い切れるだろうか。身体は日々更新され、記憶は抜け落ちたり書き換わったりし、人間関係や価値観も静かに変わっていく。それでも私たちは、途切れない一本の線のように「同じ私」を生きていると感じている。この当たり前の感覚は、どこから来るのだろう。

本稿では、自己同一性(“同じ私であり続ける”という感覚)を、固定された実体ではなく「パターン」や「流れ」として捉え直してみる。古典的な思考実験「テセウスの船」から出発し、記憶と意識の連続性、さらには情報理論や量子論が示唆する意識仮説まで視野を広げることで、「私」という存在の輪郭を別の角度から照らしたい。

そして最後に、自己が“連続体”だとしたとき、死や喪失、過去の痛みはどのように見え方を変えるのか──「自己の変容」を受け入れるための視点にも触れる。答えを断定するためではなく、今この瞬間をしなやかに生きるための思考の足場として、いくつかの仮説を並べてみよう。

要約(この記事でわかること)

  • 自己同一性は、身体や実体ではなく記憶・意識・情報の連続性によって成立している
  • 「テセウスの船」は、人間の自己も部品が入れ替わり続ける構造であることを示す比喩である
  • 意識は物質そのものではなく、情報の統合状態(パターン)として捉えられる可能性がある
  • 私たちは「瞬間ごとの私」が連なった時間的連続体として存在している
  • 死や喪失は特別な断絶ではなく、連続が止まるだけの自然な変化と捉え直せる
  • 自己を固定しない見方は、過去の痛みや失敗から距離を取り、前進するための実践的思考になる
目次

テセウスの船と自己同一性の逆説

「テセウスの船」の逆説(注1)は、私たちに自分自身の存在について問いかける古典的な思考実験だ。ある船のすべての部品を新しいものに取り替え続けたとき、それはまだ元の船と言えるのか──この疑問は、まさに「過去のそれと現在のそれは同じそれだと言えるのか」という私たちの同一性(注2)の問題そのものである。船の木材や櫂が少しずつ入れ替わっても、船全体の「形」(注3)を成す何かが残ると感じる人もいれば、物理的な部品がすべて異なれば別物だと考える人もいる。まるで全身の細胞が入れ替わっていく私たち自身のように、身体も精神も変わり続ける中で、「同じ自分」をどう捉えるかは簡単には答えが出ない。私は、この船のたとえが示すように、自己の本質とは固定された実体ではなく、ある「パターン」あるいは「流れ」(注4)に近いのではないかと感じている。


【注釈】
(注1)テセウスの船:部品が順次交換されても「同じもの」と言えるのかを問う思考実験。対象が“変化”を受けても同一とみなせる条件(何が同一性を担保するのか)を浮かび上がらせるための古典的な問い。
(注2)同一性:時間をまたいで「同じもの(同じ私)」だと言える根拠をめぐる問題。物体についても人(自己)についても成立し、ここでは後者(自己同一性)の感覚にも直結する。
(注3)「形」:素材そのもの(木材や櫂)ではなく、構造・配置・機能的まとまりといった“組織化の側”を指す語として用いている。どこまでを「同じ船」を成す本質と見るか、という直観の違いが出るポイント。
(注4)「パターン/流れ」:自己を固定的な実体ではなく、更新され続ける構造(情報・記憶・性格・関係性などのまとまり)として捉える見方。この後の「意識=情報の状態」「連続体としての私」へつながる足場でもある。

記憶と意識の連続性

ヘラクレイトス(注1)は「人は同じ川に二度入ることはできない」と言った(鴨長明も『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と記している)(注2)。川の水は刻一刻と入れ替わり続けているが、私たちはその川を同一の「川」と認識する。自己も同じで、川の流れのように絶えず変化する意識の連続が、同一性の感覚をつないでいるとも言えそうだ。しかし一方で、ジョン・ロック(注3)は「人は、過去の記憶が連続しているからこそ同じ自己でいられる」と述べた(注4)。つまり、昨日の体験や感情を覚えている限り、私は昨日の私と続いていると感じられる。記憶は「私という存在の証明」なのだとロックは考えた。私も時には、この記憶の連続性に支えられた安心を感じる。

しかし、私の記憶は完璧ではない。毎朝目覚めると一時的に前夜の夢や痛みを忘れ、頭の中が一度「リセット」されるように感じることがある。実際、一部の人々には日常的に「記憶が抜け落ち、一貫性がない」感覚が起こるとされる。私自身も時に、「昨日の私はもうどこにもいない」という不思議な実感に襲われる。あるブログには、「毎日〝私〟は眠るとリセットされ、朝目覚めると新たな〝私〟になっている。つまり、昨日までの自分はそこにはもういないのだ」と書かれていた。眠りから覚めるたびに「新しい私」が生まれてはいるが、多くの人がそれをそのまま「昨日と同じ私の続き」として扱っている。

この「昨日までの私は消え去った」という感覚は、哲学的なパラドックスにも近い。デレク・パーフィット(注5)のテレポーテーション思考実験では、地球上の人間が火星に転送されても、数的に同じ身体を持つことだけでは「同一人物」と言い切れないことが示された(注6)。身体的連続性ではなく、心理的な連続性(記憶や性格のつながり)がアイデンティティの鍵だとパーフィットは論じた。私もまた、身体が変わっても「私」であり続けるのは、過去の経験や記憶が心の中で連綿とつながっているからではないかと考える。しかし、記憶が途切れてしまえば「私はどこからどこまで同一なのか」という問いは曖昧になる。


【注釈】
(注1)ヘラクレイトス:古代ギリシャの哲学者。万物は流転するという立場で知られ、「同じ川」に見えるものも実体は刻々と変わる、という比喩で変化の連続性を示した。
(注2)鴨長明『方丈記』:無常観を象徴する古典。川の流れの比喩によって、「同一に見えるもの」でも中身は入れ替わり続けるという感覚を日本語圏で強く定着させた。
(注3)ジョン・ロック:近代哲学者。人格(パーソン)の同一性を、身体そのものよりも「意識(とくに記憶)の連続性」に基づいて考えた。
(注4)ロックの主張の射程:ここでのポイントは「過去を思い出せること」が、自己が続いているという実感(同一性)を支える、という考え方にある。
(注5)デレク・パーフィット:20世紀の哲学者。個人同一性を「数的同一性」よりも「心理的連続性(記憶・性格・意図などのつながり)」の観点から検討し、思考実験で直観を揺さぶった。
(注6)数的同一性/心理的連続性:数的同一性は「まったく同一の一個体であること」を指すのに対し、心理的連続性は「記憶・性格・価値観などが因果的につながっていること」を指す。本段落は、この二つがズレうる点を強調している。

情報理論と量子論から見た意識仮説

近年、意識の本質を物理学や情報理論で捉えようとする試みもある。ここで言及するマックス・テグマーク(注1)は、『意識を物質の状態として考える』という枠組みを提案し、意識的な物質(“perceptronium”)(注2)には他の物質にはない情報処理の性質があると論じた。すなわち、意識は脳の電気信号の単なる副作用ではなく、情報の統合・分散・動的変化などの原理によって特徴づけられる「情報の状態」のようなものだと捉えられる。こうした理論によれば、自己や他者の記憶や感情も、一種のデータパターンに過ぎず、脳がそれをどのように保持・操作するかが「意識の核心」になる。これによって、量子情報やコンピュータ的な連続性の視点から意識を再定式化しようという流れが生まれている。

一方で、脳内で量子的な計算が人間の認知を生むという説(ペンローズ=ハメロフのオーケストレイティッド客観的縮退〔Orch-OR〕など)(注3)は議論を呼んできた。テグマーク自身は、脳の神経活動における量子的な重ね合わせが維持される時間を計算し、環境との相互作用によって脳の量子的状態は極めて高速にデコヒーレンス(注4)してしまうと示した。つまり、脳内で起こるはずの量子重ね合わせは形成される前に崩れてしまい、私たちは意識的に量子的な状態の混合を直接経験することはあり得ない、というわけである。このように情報理論と量子理論の成果を踏まえると、意識とは「物理法則の上に構築された情報のパターン」であり、自己のつながりも「データの連続性」として扱えるかもしれないという視点が生まれてくる。


【注釈】
(注1)マックス・テグマーク:理論物理学者。宇宙論や情報の観点から、意識や知性を「物理法則の上に成立する情報構造」として捉え直す議論を行っている。
(注2)perceptronium:テグマークが提案した概念上の呼称で、「意識を持ちうる物質(状態)」を、情報処理の性質から特徴づけようとする試み。
(注3)オーケストレイティッド客観的縮退(Orch-OR):脳内の量子的過程が意識に関与しうるとする仮説(ペンローズとハメロフによる)。
(注4)デコヒーレンス:量子系が環境と相互作用することで、重ね合わせ(量子的な位相関係)が実質的に保てなくなる現象。

瞬間であり連続体である私

私は「自己は瞬間であり連続体である」という前提を立ててみる。デヴィッド・ルイス(注1)らの四次元主義(注2)では、私たちの存在は三次元空間に加えて時間という第四の次元にも広がるひとつの「物体」として捉えられる。つまり、今この瞬間の私も、昨日・明日の私もすべて一連のタイムスライス(時系列)(注3)からなる四次元的存在であり、連続した全体として見れば「同じ私」が続いているという考え方だ。各瞬間は異なる性質を持っているかもしれないが、全体を通せば一つの流れとして連続性がある。

仏教の「諸行無常・無我」(注4)の思想も同様に、自己を「絶え間なく変化する意識の流れ」と捉える。マルコム・デイヴィッド・エッケル(注5)によれば、「自己は毎瞬間変化し、恒久的なアイデンティティを持たない。流動的で絶え間なく変化する自己」だという。私もまた、今の私と一年前の私の間には心も身体も少しずつ変化があることを実感している。身体の細胞は入れ替わり、記憶は塗り替えられ、人間関係も変わる中で、「変化していく過程としての私」がいつも存在している。


【注釈】
(注1)デヴィッド・ルイス:20世紀後半の分析哲学者。形而上学(存在論)や可能世界論で知られ、時間の中での「存在の捉え方」を精密に議論した。
(注2)四次元主義:対象は三次元空間に“存在する”だけでなく、時間にも“延長している”とみなす立場。人や物は、瞬間ごとの断片(後述のタイムスライス)が連なった「時空的な全体」として存在すると考える。
(注3)タイムスライス(時系列):ある存在を「時間のある一瞬で切り出した断面」として捉える比喩。四次元主義では、私たちが「今の私」と呼ぶものも、その全体の一断面にあたる。
(注4)諸行無常・無我:すべては変化し続け(無常)、固定的な実体としての“私”は存在しない(無我)という仏教の基本的見取り図。本段落では、自己を「実体」ではなく「変化のプロセス」として捉える発想の接点として置かれている。
(注5)マルコム・デイヴィッド・エッケル:仏教思想の研究者。自己を固定的な同一性ではなく、瞬間瞬間に生起して移ろうプロセスとして読む解釈を提示している。

死の非劇化と自己の変容

こうして考えると、死は特別な「別世界の何か」ではなく、ただこの連続体の流れが途切れることに過ぎないようにも思える(注1)。もし「私」という存在が時系列の連続体であるなら、私がこの世からいなくなるときは、単にその流れに次のタイムスライスが加わらなくなるだけだ(注2)。換言すれば、もし私の代わりに同じパターンを持つ誰かが存在しないなら、そこに「私の続き」はなくなるだけなのである(注3)。誰かがそう言ったように、死は「交代要員がいなくなること」だと考えれば(注4)、人生という物語もそれほど劇的に終焉を迎えるわけではない。実際、日々の変化の中で私たちは無数の小さな「死」を迎えている(注5)。昨日までの私が今日とは違う自分に変わり続けているように、死もまた「新しい状態へのただの移り変わり」にすぎない。

たとえば大きな失敗や痛みを経験した自分を思い返すと、その出来事を「昨日までの自分が体験したこと」として少し距離を置いて受け止めると、心が軽くなることに気づく(注6)。そして先に述べたように、毎朝新たな自分として目覚める私たちは、実際には何度も「生まれ変わっている」とも言える(注7)。それを知ることで、私は過去に縛られず前へ進める気がする。すなわち「自己同一性」を無理にひとつに保とうと執着するより、流動する川の水のように『今ここ』をしなやかに受け入れることが、むしろ生きる知恵なのかもしれない(注8)。存在と連続性の謎を解き明かすことはできなくとも、自分の本質を「瞬間の連続」として捉えるなら、死さえも自然の一部として穏やかに受け止められるように思う。


【注釈】
(注1)連続体の流れ:ここでの「連続体」は、自己を固定された実体ではなく、時間に沿って更新され続けるプロセス(流れ)として見る立場を指す。
(注2)タイムスライス:ある存在を「時間の一断面」として切り出した比喩。死を「次の断面が増えないこと」として表現している。
(注3)同じパターン:自己を“同一の物質”ではなく、“同一の情報・心理的特徴の連なり”として扱う言い方。ここでは「続き」が成立する条件を、パターンの継続性として置いている。
(注4)「交代要員がいなくなること」:比喩的表現。死の意味を矮小化する意図ではなく、「私の連続(続き)」が成立する担い手が消える、という構造面の説明として用いている。
(注5)小さな「死」:生物学的な死ではなく、日々の変化によって「昨日の私」が更新されていくことを“断絶”として捉える比喩。
(注6)距離を置いて受け止める:心理学でいう自己距離化(self-distancing)や認知的再評価(cognitive reappraisal)に近い態度で、出来事を「いまの私」から一段引いて眺め直すことを指す。
(注7)「生まれ変わっている」:字義どおりの転生ではなく、睡眠や時間経過を挟むことで主観的に“更新”される自己感覚を強調する表現。
(注8)『今ここ』:マインドフルネス的な語感を持つが、ここでは宗教的主張というより、変化する自己を前提に「現在の経験」を引き受ける態度の提案として置かれている。

目次