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AI後の人間原理主義経済論 — 非合理の再誕

目次

はじめに:経済と「意味」の問題設定

人工知能(AI)の爆発的な発展は、経済の在り方を根底から再考させる契機となっている。経済学とは本来、「人々が無限の欲望を限られた資源で満たそうとする過程」を分析する学問であり、経済現象の前提には希少性と人間の欲望がある 。ロビンズの古典的定義によれば「経済学は、人間の行動を目的と希少な手段との関係において研究する科学である 」。だがもしテクノロジーの極限的発達によって物質的希少性が消滅し、さらには経済活動から人間主体までもが排除されたら、経済は一体何を対象にするのか。

本稿はこの問いに答えるため、「AI後の人間原理主義経済」という仮説的概念を提唱する。これは、宇宙論の人間原理(Anthropic Principle)を経済に接続し、人間観測者の存在を前提として経済の意味と価値を再定義しようとする試みである。まず第1章で人間原理主義経済の概念を定義し、第2章でAIによる極限合理化が経済にもたらす「意味の死」を論じる。第3章ではその処方箋として、人間だけが再生産できる「非合理=意味」によって経済を再生させる仮説を提示する。続く第4章では、既に現代資本主義に現れつつある非合理的経済行動(いわゆる推し活経済、共感経済、体験経済、人気(注目)経済、クラフト経済)の具体例を挙げ、それらがオルタナティブな価値創出エンジンとなっている実証的兆候を検証する。第5章では哲学的視座と思考実験を通じて、AI時代の経済の存在論(Ontology)を再定義する。最後に第6章で、人間原理主義経済に基づく制度・政策的インプリケーション(再分配や共創型の課税、共感主導の市場設計など)を提案し、経済学の新たな地平を展望したい。

人間原理主義経済とは何か:観測主体と経済価値

まず「人間原理主義経済」という概念を定義するにあたり、宇宙論の人間原理(Anthropic Principle)を参照する。人間原理とは宇宙物理学で提唱された考え方で、「宇宙が現在人間に適した姿をしているのは、そうでなければ人間が宇宙を観測し得なかったからだ」という論理である 。観測者である人間の存在を前提に宇宙の物理法則や定数の値を説明しようとするもので、弱い人間原理・強い人間原理など様々な形で議論されてきた 。重要なのは、「観測者の存在」が宇宙の在り方の解釈に不可欠だとする点である。

この発想を経済に敷衍すると、経済においても「観測者=人間」の存在が価値創造の前提条件だという立場に行き着く。すなわち人間原理主義経済とは、「経済現象や価値の成立には人間(観測主体)の存在が不可欠であり、人間抜きでは経済は成り立たない」という考え方である。宇宙論で人間がいなければ宇宙を観測できないように、人間がいなければ経済を観測し価値評価する主体が存在しない。経済における財・サービスの価値は客観的に定まるものではなく、それを欲しがり評価する主観的な人間の心に由来する。実際、経済学の主流派自体が「価値は主観的」(value is subjective)であると説いてきた。例えばオーストリア学派やマーシャル以降の限界効用理論は、財の経済価値は市場における人々の主観的効用評価に基づくとする 。マックス・ボーダーズは「価値は物に内在しない。あらゆる経済は人々の内なる心的状態に由来する」と指摘している 。極端な例では、本来500ドル程度の価値しかないタブレット端末に5000ドルもの価格が付いたケースさえあるが、それも結局は人々が主観的にそれだけの価値があると感じたからに他ならない 。

また哲学者ジョン・サールは貨幣を例に、社会的な「価値」が観測主体(人間)の合意によって生まれることを論じている。紙幣そのものには物理的価値はないが、「人々がそれをお金として受け入れ意図する(collective acceptance and intention)」ことによって初めて貨幣としての価値が生まれる、というのだ。実際「お金がお金であるのは、我々がそれをお金だと受け入れて意図しているからに過ぎない」 のであり、裏を返せば人間の信認が消えれば紙切れ同然となる。以上から、人間原理主義経済の核心は、経済価値や市場メカニズムは人間という観測・評価主体があってこそ有意味となるという命題である。

AIによる極限的合理化と経済の“意味の死”

しかし現在、AI技術の進歩がこの前提を揺るがしつつある。AIは人間以上に効率的に計算・判断し、生産工程の自動化や需要予測を驚異的な精度で実行できるようになった 。その結果もたらされるのが、かつてユートピア的に語られた「ポスト希少性(脱希少化)社会」である 。高度なAIとオートメーションにより、生産コストは限りなくゼロに近づき、モノやサービスは事実上無限に供給可能になる 。経済の大前提であった希少性(scarcity)が消滅し、誰もが基本的な物質的ニーズを苦労無く満たせる社会——いわゆる「ポスト・スキャーシティ(脱欠乏)社会」が視野に入っている 。実際、ジェレミー・リフキンが「ゼロ限界費用社会」と呼んだように、生産の限界費用がゼロに近づけば市場原理は大きく変容しうる。例えばデジタル情報や3Dプリンタ製品のように、一度設計すれば追加コピーにほぼコストがかからないものでは、伝統的な価格メカニズムが成立しにくくなる。

AIが経済にもたらすこの極限的な合理化は、一見すると人類に物質的な豊かさを約束する輝かしい未来に思える。実際それは「かつてない物質的富、労働からの解放、生活様式の再定義」をもたらすと期待されている 。しかしこの過程には深刻な逆説が潜んでいる。すなわち、経済の意味そのものの消失である。経済とは本来、希少な資源配分の問題であった 。ゆえにもし希少性が完全に消滅するなら、伝統的な経済問題(何をどれだけ生産し誰に分配するか)は「解決済み」となり、経済学はその存在意義を失いかねない。実際、経済学者ケインズは1930年の有名なエッセイ『孫たちの経済的可能性』で、技術進歩により「経済問題は100年以内に人類から取り除かれるだろう」と予測し、その時人類は「経済的必要から解放された自由をいかに使うか」という真の課題に直面すると述べた 。ケインズの言葉を借りれば、「史上初めて人類は真の恒久的問題——切迫した経済的心配から解放された自由をどう用い、いかに賢明かつ有意義に生きるか——に直面することになる」 という。 彼はさらに、生活のために働かなくてよくなったとき人々が目的意識を見失い、「精神的な危機」や「神経衰弱」に陥る可能性すら示唆している 。これは皮肉にも、経済問題の消滅が人生の意味の喪失を招きうることを示唆した洞察だった。

今日、その予兆は既に現れつつある。労働から解放され所得を保障された社会が実現すれば、確かに人々の経済的ストレスや不安は減少し得る。しかし同時に、「目的喪失」「社会から取り残される感覚」「生きがいの欠如」といった新たな課題が生じる可能性が指摘されている 。実際、近年の試算でも労働の多くが機械に代替される一方で、人々が直面するのは孤独感や目的喪失の問題だと指摘する声がある 。データはこの懸念を裏付ける。フィンランドで2017~2018年に行われたベーシックインカム(UBI)の社会実験では、2000名の無職者に無条件で月560ユーロを給付したところ、就労状況に大きな変化はなかったものの、受給者の精神的幸福度やストレス軽減には顕著な改善が見られた 。経済的安心は得られたが、一方で「社会とのつながり」や「人生の目的意識」を維持する方策が重要だという議論も高まった。つまり、物質的ニーズが満たされた後に残る課題は生きがいや意味の創出であり、これは経済の従来の枠組みを超えた問題なのである。

以上を整理すると、AIによる徹底した効率化・自動化は、経済から「希少性」という軸を取り去り、人間の関与をも最小化する。それは経済学が前提としてきた「人間の欲望と希少資源」という図式を空洞化させ、結果として経済活動の意味(purpose)を失わせる危険性がある 。実際、経済活動の究極目的は人間の福利や充足にあるはずだが、人間不在・目的喪失の経済は手段が自己目的化した空回りのシステムになりかねない。フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、こうした「手段の目的化」を道具的理性の批判として喝破している。彼らによれば近代社会では手段(効率や合理性)への配慮が肥大化し、何のためにそれを行うのかという本来的目的や意味への問いが蔑ろにされている 。つまり「より大きな意味や目的」を顧みず、目標達成の効率性ばかりを追求する傾向であり、その極限にあるのがAI主導の超効率経済といえる。こうした経済では全てが合理的に最適化されているかもしれないが、もはや「なぜそれをするのか」という問いに答える主体がおらず、意味的な空洞が生じる。

結論すれば、AI時代の到来は経済から希少性・非効率・人的主体といった「不合理」な要素を駆逐し、一見理想郷のような豊かさをもたらすかもしれない。しかしそれは同時に、経済という営みの存在意義(meaning)をも奪いかねない構造的限界を孕んでいる。経済の意味の死——これこそが我々が直面するパラドックスである。

人間による「非合理=意味」の再生産:経済再生の仮説

では、上述のような経済の「意味の死」に対する処方箋は何か。本章ではその答えを、人間だけが持つ能力——すなわち非合理性——に見出す。AIが極限まで合理化した経済システムに再び意味を吹き込むには、人間的な不合理さこそが鍵であるという仮説である。

ここで言う「非合理性」とは、必ずしもロジックや効率性に反した誤った選択という意味ではない。むしろ経済学的合理性(自己利益の最大化や効用の極大化)では説明がつかない人間らしい価値追求や情動的・文化的な選好を指す。端的に言えば、「心の充足」や「意味の実現」のために敢えて非効率な行動を取ることである。AIは与えられた目的関数を最適化する存在だが、その目的それ自体を設定したり新たな価値を創出したりするのは苦手だ。しかし人間は、ときに効率を度外視してでも意味を求める生き物である。だからこそ、AIには生成し得ない新たな価値(意味)を人間が供給できる余地がある。

実際、歴史を顧みれば人間社会はしばしば「非合理」な営みによって文化的・社会的価値を創出してきた。貨幣経済の発展以前、人類は互酬や贈与といった非効率な方法で社会関係を築いてきたし(モースの『贈与論』に詳しいように)、近代資本主義下でも芸術や宗教、ボランティア活動など経済合理性だけでは説明できない行動が豊かな社会的価値を生んできた。これらは一見すると経済学的には無駄や非効率に映るかもしれないが、人々に生きる意味や共同体の絆をもたらし得る重要な営みだったと言える。

AIが高度化し多くのモノ・サービスが潤沢になるほど、逆に人間は物質的効用ではなく心的・物語的な充足を求めてお金を使うようになるだろう。それはしばしば既存の経済理論から見ると「非合理な消費」や「異常な市場現象」と映るかもしれない。しかし、それこそがAIには真似できない人間経済の核となる可能性がある。効率性を突き詰めた社会では、「ムダ」や「遠回り」の中にこそ楽しみや意味が宿ることを人間は知っている。例えば究極的に見れば、生存に必要な栄養素は錠剤や完全食で摂取できるかもしれないが、人間はあえて時間とお金をかけて美味しい料理を作り、誰かと食卓を囲む。この非効率な行為から生まれる幸福感や絆は、単なるカロリー摂取では得られない価値である。

要するに、人間原理主義経済の仮説とは、「AIによって物質的効率性が極限化した後の世界では、人間だけが担える非合理な価値創出こそが経済の中心になる」というものである。合理性一辺倒で意味喪失に陥った経済に、人間の持つ非合理性が「意味の再誕」をもたらすという逆説である。宇宙論の人間原理が「観測者なしには宇宙の意味はない」としたように、経済も「人間的非合理性なしには意味を失う」が、裏を返せば「非合理という観測者の介入によってのみ経済の物語は続く」という主張である。

この仮説を裏付けるように、現代の資本主義にも既にいくつかの非合理的経済行動の台頭が見られる。次章ではそれら具体例を検討し、AI時代に向けた人間原理主義経済の兆候を探る。

「非合理」経済行動の台頭:代替的価値創出の事例

現代の経済には、一見すると経済合理性の原則から外れた「非合理」な行動が若者を中心に広がっており、それらが新たな市場や価値創出の源泉となっている。ここでは推し活経済、共感経済、体験経済、人気(注目)経済、クラフト経済という五つの事例を取り上げ、それぞれが資本主義の中で果たしつつある役割を考察する。

1. 推し活経済:ファンダムによる共創の巨大市場

「推し活」とは、自分の「推し」(応援対象)であるアイドルやアーティスト、キャラクターなどを積極的に応援・支援するファン活動の俗称である。近年、この推し活が単なる個人の趣味を超えて巨大な経済圏を形成し始めている 。例えばアイドルグループのコンサートや関連グッズ、ファンイベントへの課金、さらにはオンラインでの投票合戦やクラウドファンディングへの参加など、ファンが「推し」のために費やす消費行動は、従来の効用最大化の観点では説明しにくいほど情熱的かつ多額になり得る。典型例として、世界的K-POPグループBTSのファンダム「ARMY」は、ストリーミング再生やSNS投票、チャリティー募金に至るまで自主的・組織的に活動し、アーティストの成功に積極的に貢献している 。これはもはや「応援」という消費行動を超えて、ファン自らが価値を共創していると評される 。

推し活経済の特徴は、ファンの熱狂と共創意識が直接的に経済価値につながる点にある。ファンは推しへの愛情や共感ゆえに「非合理」なほど入れ込むが、その集合的な盛り上がりが大きな市場規模を生み、コンテンツ産業の収益源となっている。SNSやライブ配信プラットフォーム、ECサイトの普及により、ファンは国境を越えて瞬時につながり推しを支えることが可能になり、推し活経済はかつてないスケールで拡大している 。これは経済学的に見れば「単なる自己満足に過ぎない非合理消費」の集合かもしれないが、実際には新たな雇用やビジネスモデル(ファンクラブ商法、グッズ産業、ライブ興行、関連サービス)を創出しており、現代資本主義の一角を担う代替的価値創出エンジンとなっている。

2. 共感経済:信頼と物語に基づく市場

共感経済とは、消費や投資の動機づけとして「安いから買う」「儲かるから投資する」のような従来の合理的判断ではなく、「応援したいから買う」「理念に共感するから投資する」といった共感や信頼が重視される経済活動のことを指す 。企業活動においても、単に利益追求ではなくパーパス(存在意義)を掲げて社会的理念に共鳴する顧客や投資家を引きつける動きが典型例である 。たとえば「発展途上国の労働者に公正な賃金を支払う」ことを理念とする企業の商品を、その理念に共感する消費者が進んで購入したり、同じ理由でその企業に就職・投資したりする 。ここでは商品自体の機能・価格以上に、「その商品や企業が持つストーリーや価値観」に対してお金が支払われている。

共感経済の広がりを促進したのはインターネットとソーシャルメディアである。他者のレビューやSNS上の「いいね!」の数、口コミ評価などによって、「何が共感を集め評価されているか」が可視化されるようになり、それが購買の重要な判断材料となっている 。クラウドファンディングの一般化も共感経済を象徴する現象だ。見知らぬ個人が立ち上げたプロジェクトであっても、その志や物語に共感すれば人々は自発的に資金提供を行う 。そこには経済的リターンを度外視した「応援投資」の側面すらある。

このように共感経済では、経済行為が単なる交換取引ではなく、価値観や物語の共有行為となる。消費者・投資家は商品や企業を通じて自らの価値観を表明し、社会を良くする一助になっているという主観的満足を得る。企業側もまた、共感資本を集めるために社会課題の解決やサステナビリティといった高次の目的を掲げるようになっている(いわゆるESG経営やソーシャルビジネスの潮流)。これらは伝統的な経済学の枠では測りにくい「利他的・共感的動機」に基づく行動だが、それゆえにこそAIには容易に真似できない人間固有のマーケットを形成している。

3. 体験経済:経験価値の商品化

体験経済(Experience Economy)とは、商品そのものやサービスの提供ではなく、「顧客にとって忘れられない経験そのものを売る」経済形態を指す 。B・ジョセフ・パインII世とジェームズ・ギルモアが1999年に提唱した概念であり、農業経済→工業経済→サービス経済に続く第四のステージとして位置づけられる。具体的には、テーマパークでの興奮、観光地での感動体験、ライブイベントでの高揚感、さらには教育や自己変革プログラムによる成長実感など、人々が心に残る時間的体験に対して対価を支払う経済を意味する。

体験経済では、企業は単に商品やサービスを提供するのではなく、物語性や没入感のある演出を通じて顧客に特別な体験を「演出」する 。たとえば同じコーヒー豆でも、自宅で淹れる数十円のコーヒーではなく、有名カフェで心地よい音楽と空間演出の中で飲む一杯に数百円を払う、というのは典型例だろう。この場合、顧客が買っているのはコーヒーそのものではなく「カフェで過ごす時間」という経験価値である。

現代では高度成長により物質的な充足が当たり前になるにつれ、人々はより心理的充足感や自己実現を求めるようになった。未来学者のアルビン・トフラーは1970年の著書『未来の衝撃』の中ですでに、「経済は精神的満足(psychic gratification)の提供へとシフトし、モノには心理的付加価値が求められるようになる」と予見していた 。彼は、基本的ニーズが満たされた社会では「質の高い生」を求めるプロセスが進み、製品にも「サイキック・ロード(精神的な荷重)」が積み増されると指摘した 。まさに現在の経験経済はその延長線上にあり、たとえばスマートフォンという製品も、スペックの差異より「それを使ってどんな体験やライフスタイルが得られるか」を売るマーケティングが重視される。

経験経済では、経済的価値の評価尺度が従来の効用や品質から感動・思い出・自己変容といった無形の次元へと移る。その意味で、物財が過剰供給されたポスト・スキャーシティ時代において人々が希求する新たな希少資源=感動体験を商品化したものといえる。AIが生産性を極大化して財やサービスを潤沢にもたらしても、人間はなお「心が震える瞬間」を求める。こうした体験経済の広がりもまた、人間が経済に意味を付与する一形態であり、単なる合理的取引を超えた次元で価値創出が行われている例である。

4. 人気(注目)経済:注意力と承認欲求の市場

現代はしばしば「注意力経済(Attention Economy)」とも呼ばれる 。情報があふれる社会において、人間の限られた注意力・時間こそが希少資源となり、それを獲得した者が経済的価値を得るというパラダイムである 。ハーバート・サイモンが「情報過多の世界では、それが消費する人間の注意こそが希少資源になる」と述べたのは1971年のことだが 、インターネット時代に入りこの洞察は現実のものとなった。SNSの「いいね」やフォロワー数、動画再生回数といった「注目」の量がそのまま経済価値に転化するケースが顕著になっている。

具体的には、人気インフルエンサー(オンライン上の有名人)は大量の視聴者の注意を引きつけ、その影響力を広告や商品販売に繋げることで収益を上げている。いわゆる「インフルエンサー経済」では、彼らの人気そのものがブランド価値となり、投稿一つあたり数十万円以上の広告料が支払われることも珍しくない。

ここではフォロワーの購買意欲を直接刺激するというより、「有名であること」自体が価値となる。かつては芸能人やスポーツ選手など一部に限られていた名声のマネタイズが、SNSプラットフォームを通じて一般人にも開かれた形だ。

この人気経済(注目経済)の背景には、人間の持つ承認欲求や社会的比較の心理がある。ケインズが指摘したように、人間の欲望には「他者より抜きん出たい(相対的欲求)」側面があり 、物質的必要が満たされた社会ではむしろ名声や承認への欲求が際限なく膨らみ得る 。フォロワー数や「バズり」が可視化された現代では、人々はこぞって注目を集めようと創意工夫し、それが時に奇抜なコンテンツや消費行動を生み出している。これは伝統的な効用最大化行動の枠には収まらない社会的欲求の経済であり、一種のゲーム的様相を帯びている(「いいね経済圏」とも揶揄される)。

もっとも、注意力経済が深化し過ぎると負の外部性も指摘されている。過度な注目の奪い合いはフェイクニュースの蔓延や社会の分断、メンタルヘルス悪化(SNS中毒など)を引き起こすとの批判もある 。しかしここで重要なのは、人間の関心や人気という無形資本が市場原理の中核に組み込まれている点だ。AIは人間の注意を計算するアルゴリズム(推薦システムなど)を提供しているが、どのコンテンツに人々が心惹かれるかを最終的に決めるのは人間の興味関心であり、そこには非論理的・感情的な要素が多分に含まれる。人気経済もまた、非合理な人間心理が作り出す経済現象と言えよう。

5. クラフト経済:クラフトマンシップと人間味の復権

大量生産・大量消費の工業経済へのカウンターとして、近年クラフト経済(Craft Economy)とも呼ぶべき動きが注目されている。それは機械ではなく人間の手仕事(クラフトマンシップ)に価値を見出す市場のことである。例えば手作りの工芸品や職人技が光る製品は、工場生産品より高値でも喜んで買い求める消費者層が存在する。EコマースのプラットフォームEtsyが世界的に成功したことや、クラフトビール・クラフトコーヒーといった分野の隆盛は、その典型例である。

グローバルにはハンドメイド製品・創意的製造(Creative Manufacturing and Handmade: CMH)の市場規模が2023年時点で推定1兆ドルにも達しているという分析がある 。この成長の背景には、「職人技や人間の温もりが感じられる製品には付加価値があり、人々はそこにお金を払う」という消費トレンドがある 。まさに「クラフトマンシップと人間の手の温かみは価値と収益を高める」と指摘されている通りだ 。例えば高度に自動化された機械が家具を量産できる時代になっても、あえて伝統工芸の手彫り家具に高額を支払う顧客がいるのは、その背後にある文化的物語や唯一無二の個性に価値を認めているからだ。

クラフト経済の意義は、AIや機械には真似できない人間固有の創造性や技能が経済価値を持つ点にある。無機質な大量生産品に囲まれた消費者は逆に「人間らしさ」への飢えを感じ、手仕事による不完全さや温かみに魅力を見出す。技術と機械が人間労働を置換する世界では、むしろ「なぜそれが人間の手を必要とするのか」というストーリーが付加価値になる 。実際、「テクノロジーと機械に置換されゆく世界だからこそ、クラフトビジネスはブランドの個性と唯一無二性を訴求しなければならない。消費者には、なぜその製品に人間の手が必要なのかを理解してもらう必要がある」と指摘されている 。つまり、クラフト経済は効率性を超えた価値基準——文化・伝統・人間性——を前面に出し、それがしっかり市場で評価されていることを示している。

以上5つの事例はいずれも、AI主導の合理的経済とは一線を画す人間的な「非合理」経済の潮流である。推し活経済は情熱と共創、共感経済は信頼と社会貢献、体験経済は感動と物語、人気経済は承認と注意、クラフト経済は人間性と伝統をそれぞれキーワードとしており、これらが現代の資本主義で新たな価値領域を形成しつつあることは注目に値する。これらの潮流は点と点で別個に見えるかもしれないが、その根底には共通して「人間にしか生み出せない意味への渇望」があるように思われる。AIがどんなに発達しても、人間がこれら非合理な価値領域に価値を認めるかぎり、そこに経済の新たなフロンティアが開けていくのである。

AI時代の経済存在論:哲学的視座と思考実験

上記の事例検証を踏まえ、AI時代の経済を存在論(オントロジー)的に再定義してみたい。キー概念は「観測主体と経済現象の相関」である。すなわち、人間という観測主体が存在して初めて「経済」は主観的意味を帯び、価値が立ち現れるという立場である。この点を哲学的に考えるため、思考実験として「AIだけの経済 vs 観測者たる人間が存在する経済」を比較してみよう。

まず、究極的にAIだけで完結する経済を想定する。高度なAIエージェント同士が、生産から分配まで全てを自律的に管理し、物資もエネルギーも潤沢で全ての需要(仮にそれがあれば)が満たされる経済だ。この社会では、生産計画も配送も消費も最適化されており、無駄や不足は一切ないとする。しかしそこに「感じる主体」が存在しなければ、その完璧なシステムに一体何の意味があるのだろうか。AI自身が人間同様の意識や感情を持たない限り、それは単に膨大なデータのやり取りとエネルギー変換プロセスに過ぎず、価値評価や満足も発生しない。言い換えれば、「誰も見ていない森で木が倒れる」ようなもので、経済活動が行われても誰一人それを経験せず幸福にもならないのだ。

次に、人間が存在する経済を考える。我々は日々、経済活動を通じて喜びや悲しみ、充実感や不満を感じ、場合によっては人生の目的すら見出す。ある消費行動は自己表現となり、ある経済的成功は社会的承認となり、ある投資は他者との連帯感を生む。このように、経済現象は人間の主観と結びついて初めて価値を帯びる。経済成長率やGDPといったマクロ指標も、人々の生活実感(豊かさや幸福度)と結びつかなければ虚しい数字でしかない。結局のところ経済とは、人間の意識に生起する経験のネットワークに他ならない。観測者である人間がいて初めて、「これは価値がある」「これが欲しい」「豊かになった」と認識されるのである。

この違いを強調するため、量子論の比喩を持ち出してみる。量子力学では観測者問題があり、「観測されない限り粒子の状態は確定しない」とされる(シュレーディンガーの猫のパラドックスなどが有名だ)。同様に、経済も観測主体(人間)の認知を通さなければ“存在しないも同然”ではないか。貨幣も株式も、人間社会の合意や信頼という観測行為によって価値が付与されている 。もし誰もそれらに関心を払わなければ、紙幣は紙切れ、株券はただの電子信号に戻ってしまうだろう。

以上を踏まえると、AI時代の経済存在論として浮かび上がるのは、「経済とは本質的に人間存在の投影であり、人間の意味付与行為によってのみ実在性を持つ」という立場である。AIは経済活動を技術的に“代行”できても、意味の充填までは代行できない。なぜなら意味とは、それを感じ取る主観の側に生じる現象だからだ。AIに感情や意識が芽生えない限り、AIがいくら活動しても、それ自体は“感じていない”のだから経済的価値も感じられない。結局、その経済活動の成果(製品やサービス)に喜びや満足を見出すのは人間である。

これは同時に、経済学への認識論的示唆も含んでいる。すなわち、経済学は単なる客観的科学ではなく、観測者である私たち人間自身の価値観や欲望を扱う人間科学なのだということである。経済を外在的対象として分析し尽くそうとするアプローチ(典型的には数理モデル至上主義)は、観測主体自身をブラックボックスにしてしまう危険がある 。ホルクハイマーが批判したように、あまりに形式合理性(instrumental reason)に頼り過ぎると、我々は自ら設定した指標やモデルに呪縛され、肝心の人間的価値を見失う恐れがある 。AI時代にはなおさら、経済学は人間の主観・経験・意味と切り離せない学問であることを自覚し、人文社会的な視点を取り戻す必要があるだろう。

最後に、今一度宇宙論の人間原理とのアナロジーでまとめる。人間原理強硬派の主張は、「知的生命が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。ゆえに我々が観測する宇宙は知的生命(我々)が存在できる構造をしていなければならない」というものだった 。これを経済に当てはめて言えば、「人間的主体が意味を見出せないような経済システムは存続し得ない。ゆえに我々が今後も経験する経済は、人間が意味を見出しうるような構造へと変容していくはずだ」という命題になるだろう。これこそがAI後の人間原理主義経済の哲学的な帰結である。

人間原理主義経済に基づく制度設計と経済学の新地平

人間原理主義経済の視座から、具体的な経済制度・政策を構想するとどのようなものになるだろうか。本章では再分配、課税モデル、市場設計の観点からいくつかの含意を提言する。

(1) 再分配政策の再設計: まず、AIによる高度自動化が進めば富と雇用の偏在が避けられない。前述のようにUBI(ユニバーサル・ベーシックインカム)導入の議論が各国で活発化しているが 、これは単なる所得補償に留まらず、「人々が経済的必要から解放され創造や社会参加に時間を使えるようにする」ための投資と捉えるべきである 。フィンランドの実験が示したように、UBIは人々の不安を和らげ幸福度を高める効果が確認されている 。AI時代において再分配の目的は、単に貧困救済ではなく「人々が意味ある活動に従事する余裕を与える」ことにある。例えば、無償の創作活動やボランティア、コミュニティ参与といった非市場的行為にも人々が時間を割けるよう、所得再分配だけでなく時間の再分配(労働時間短縮など)も検討されるべきだ。ケインズが予見したように、テクノロジーがもたらす余暇を「賢明かつ有意義に生きる」ことこそが人類の課題となる 以上、その土台を築く政策が必要である。

(2) 共創型課税モデル: 従来の課税は所得や消費など個人の活動量に対して行われてきた。しかしAI時代には、機械が生み出す富にどう課税し人間との共生に充てるかが争点となる。ビル・ゲイツが提唱した「ロボット税」のように、AIやロボットの利用による効率化利益に課税して人間の再教育やUBI財源に充てる案も出ている。またサム・アルトマンらはAI企業の超過利潤を社会還元する「人類給付金」構想を示唆している。人間原理主義経済の観点では、課税の役割は単なる財源確保ではなく「人間とAIが協調して価値創造するエコシステムのデザイン」と捉えることが重要だ。例えば、オープンソースソフトやクリエイティブ・コモンズ的活動への税制優遇、コミュニティで共創された価値に報いる仕組みなどが考えられる。具体策としては、企業の従業員やユーザーコミュニティへの利益配分(従業員持株やプラットフォーム協同組合)、共感消費を促す購入税控除(社会的企業の製品に軽減税率を適用する等)も検討に値するだろう。重要なのは、税制度自体が共創と共感のインセンティブを内蔵し、人間主体の価値創出を促すよう再設計することである。

(3) 共感主導の市場構築: 市場設計においても、人間原理主義経済の視点を取り入れるなら「効率性」だけでなく「共感」や「意味の充足度」を指標に据えた新たな仕組みづくりが必要だ。例えば、近年注目されるソーシャル・インパクト測定(社会や環境への良い影響を定量評価する手法)を市場メカニズムに組み込むことが考えられる。具体的には、上場企業の評価基準に財務指標だけでなくESGスコアや従業員・顧客満足度を加味したり、株主総会で従業員や顧客代表の発言権を保障するなどだ。さらにはDAO(分散型自律組織)のようなブロックチェーン技術を用いて、ファンやコミュニティメンバーが直接ガバナンスに参加できる企業形態も現れつつある 。推し活経済の文脈では、DAOがファンとアーティストの「共創経済」を技術的に支えるインフラとなりうることが示唆されている 。こうした新しい市場フレームでは、参加者全員が対等に意思決定に関われ、共感に基づく価値形成がよりダイレクトに経済成果となる。人間原理主義経済は、単に人間を保護するのでなく、人間同士がお互いの主観的価値を交換・増幅しあえる市場環境を整えることを意味する。

(4) 繋がりと意味のインフラ整備: 最後に政策的観点から、「経済的豊かさ」だけでなく「意味的豊かさ」を追求する社会インフラの重要性を強調したい。例えば教育政策ではSTEMのみならずリベラルアーツや芸術を重視し、若者が自分なりの意義を見出す力(Meaning-making能力)を育む必要がある。また地域通貨やシェアリングエコノミーの支援によって、金銭的価値に換算しにくい助け合いやコミュニティ活動も経済循環に組み入れる取り組みも有効だろう。デンマークなどが導入する幸福度予算(Well-being Budget)のように、政府が経済政策の目標に国民の幸福や精神的健康を据える動きも参考になる。これらは一見経済学の範疇を超えているように思えるが、AI時代においては経済と生活の質(Quality of Life)の統合が重要になる。人間原理主義経済の視座では、GDP成長=目的ではなく人間の充実=目的であり、経済はその手段に過ぎないという原点に立ち返る必要がある。

以上の提案はどれも試論的であるが、共通するのは「経済を人間の側へ引き戻す」方向性である。AIがどんなに進化しようとも、経済は人間の意味追求の舞台であり続けるという信念に基づけば、政策もテクノロジー偏重ではなく人間中心へと舵を切るべきだろう。それは単に人間の雇用を守るといった狭い意味ではなく、人間の存在価値がきちんと発揮され報われる経済システムを設計するという、より根源的な課題である。

おわりに:経済学の新しい地平

本稿では、「AI後の人間原理主義経済論」という大胆な仮説を通じて、経済と人間の関係性を再考した。宇宙の人間原理になぞらえ、経済においても観測者たる人間の不可欠性を主張し、AIによる合理化が行き着いた先に経済の意味の消失という限界があることを指摘した。そして、その打開策として非合理性=意味を再注入する人間の役割を位置づけ、推し活経済・共感経済・体験経済・人気経済・クラフト経済といった現代の現象をその兆候として検証した。さらに哲学的考察を交え、AI時代の経済存在論を「経済価値は人間の主観的世界においてのみ実在する」という形で提示し、制度設計への含意を議論した。

これらの議論が示唆するのは、経済学においてこれから重要性を増すのは「意味の経済学」とも言うべき領域だということである。効率や数値だけでは測れない人間の心理的価値、文化的価値をどう捉え評価するか。あるいは、人々がどうしたら自分の人生やコミュニティにおいて意味を実感できる経済環境を作れるか。そうした問いに経済学が正面から取り組む必要があるだろう。幸い、本稿で取り上げたような動きは既に世界各地で萌芽しており、新たな経済モデルや理論の素材となりつつある。経済学は今、AIという新たな他者を得て進化が迫られている。それは単にデータ解析やモデルの高度化ではなく、人間とは何か、人間にとって価値とは何かという根源的な問いと向き合う進化である。

ポストAI時代において、経済学はもはや人間を合理的消費・生産単位とみなすだけでは不十分だ。人間を意味生成の主体として捉え、その非合理性を包摂した理論体系へと拡張していく必要がある。人間原理主義経済論はその一つの試論であり、経済学の新しい地平へのささやかな提案である。AIによって効率性の極限がもたらされるからこそ、我々人類は経済という営みに新たな物語(ストーリー)と目的を与え直さねばならない。経済の物語を語り継ぐ観測者としての人間——その重要性を改めて認識し、経済学を「人間の学」として再出発させること。それが“非合理の再誕”を謳う本稿の結論である。

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