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国語インフラが形づくる知識アクセス・教育の公平性・国家の力

現代社会において、「国語」(国家の主要な言語)のインフラストラクチャー──すなわちその言語で高度な知識を生み出し共有できる環境──は、国民の知識へのアクセス、教育機会の公平性、さらには国家のイノベーション能力や国力に大きな影響を与える。特に、自国語による知の体系が強固な先進国(例:日本やフランス)と、高等教育や先端知識の習得が外国語(多くの場合英語)に依存している国(例:タイやインド)の比較から、この問題を考察する。本稿ではまず「強い言語」とは何かを定義し、歴史的事例として明治期日本の取り組みを概観する。さらにポストコロニアル諸国との比較を通じて、言語の壁が教育と知識に与える影響(自己完結型の知識自給 vs. 他言語への依存)について論じ、その結果として現れる国家のイノベーション力・公平性・経済発展への帰結を考察する。最後に、AI時代における言語資源の格差が新たにもたらす影響にも言及する。

目次

「強い言語」とは何か:概念生産性・教育統合・文化的基盤

「強い言語」とは、単に話者数が多いというだけではなく、その言語によって高度な概念を自在に生み出し(概念生産性)、初等教育から高等教育・専門研究に至るまで一貫して使用でき(教育への統合)、さらに人々の文化的アイデンティティの中核をなす(文化的基盤)ような言語を指す。本質的には、国民が母語で高度な思考や学術活動を行えるかどうかが一つの指標となる。

概念生産性とは、新しい概念や技術に対して自前の言葉を生み出し定着させる能力である。例えば日本語は明治期に西洋由来の専門用語を数多く翻訳・造語した歴史を持つ。実際、幕末から明治にかけて日本では新しい日本語の語彙が爆発的に増加した。1860年代までは年間100語程度にとどまっていた新語の数が、明治政府による大規模な翻訳辞書編纂(1871年の『英和辞典』完成など)を経て、1870年代以降は年間1000語以上に跳ね上がっている 。このように自国語で新しい概念を表現できる語彙を創出する力は、単に翻訳に留まらず知識の咀嚼と再構築を可能にし、その言語の「強さ」を示す。

教育への統合とは、母語が高等教育や科学技術の分野まで含めて教育の媒介言語として十分に機能しているかという点である。強い言語を持つ国では、大学で専門知識を学ぶ際にも基本的に母語で教材や講義が提供される。一方、言語インフラが脆弱な国では、高度な教育になればなるほど外国語(典型的には英語)で授業や文献をこなす必要が生じ、母語だけでは学べない領域が広がる。例えばマレーシアでは「初等教育は母語、中等教育は国語(マレー語)、高等教育は英語」という形で段階的に使用言語が切り替わり、最先端の知には英語が不可欠となっていると報告されている。このような状況では、外国語を習得できる一部の学生のみが高度教育に進めるため、言語が教育格差のフィルターとして機能してしまう。

さらに文化的基盤としての役割も重要である。言語は単なる通信手段に留まらず、人々の思考様式や文化的伝統を支える「記憶装置」であり、国民のアイデンティティを形づくる 。強い言語は自国の哲学・文学から科学技術まで幅広い知的遺産を母語で蓄積し、それを共有することで国民の一体感と誇りを育む。例えばフランスや日本では、自国語で書かれた古典から最先端の論文までが存在し、人々は母語で自国と世界を語ることができる。一方、知的営為の多くが外国語で行われる国では、「高度なことは外国語でやるものだ」という風潮が生まれ、母語の地位低下や文化的自信の喪失につながりかねない。

以上のような観点から、「強い言語」とは概念創造力と教育体系への統合度が高く、人々の文化的誇りとも結びついた言語と言える。これを踏まえて、歴史上それを成し遂げた代表例としての明治期日本を考察し、対照的にそうできなかった国々との比較を見る。

歴史的事例:明治日本における母語による知の吸収と創造

19世紀後半の日本は、「強い言語」を育て上げ国家発展に結びつけた顕著な例である。明治維新期、日本は急速な近代化を図る中で、西洋の科学・技術・思想を大量に輸入した。しかし重要だったのは、その知識を単に輸入するだけでなく徹底的に日本語へ翻訳し、自家薬籠中のものとした点である 。当時、世界の技術・学術知識の大半は英・仏・独・伊の欧州4言語で記されており、日本語を含むその他多くの言語では専門書がほとんど存在しなかった 。もし日本が西洋の学問をそのまま英語等で学ぶ道を選んでいたなら、一部のエリート以外には知識が広がらず、近代化はごく限られた層のものになっていただろう。

日本政府はこの状況を打破するため、大規模な言語政策を推進した。国家主導の知識翻訳計画が立ち上げられ、官民の翻訳者が欧米の技術書・学術書を次々と和訳した。同時に、新たな概念に対応する日本語の専門用語を創造し、それらを統一するため英和辞典の編纂も進められた 。例えば「railroad」は「鉄道」、「telegraph」は「電信機」、「steam engine」は「蒸気機関」と翻訳され、単にアルファベットを音写するのではなく日本語の語彙として定着させた。当時存在しなかった科学技術の語彙をゼロから作り出し、統一的に使用するという作業は、言語学的にも社会的にも非常に大きな調整を要するものだったが、日本は国家プロジェクトとしてこの「知識の言語化」を成し遂げた 。その成果として、1870年時点ではほぼ皆無だった日本語の技術書が、わずか数十年で世界有数の量に達したのである。

具体的な数字で見ると、明治初頭には日本語で読める専門書はごく僅かだったが、政府主導の翻訳事業によって日本語で利用できる知識のストックは爆発的に増大した 。その結果、日本語は1890年にはフランス語・英語に次ぐ「世界第3位の技術書保有言語」となり、1910年にはついに英語をも凌駕して世界第2位の地位を占めるに至った 。これは非欧米圏の言語として当時他に類を見ない達成であり、日本以外の多くの国では同時期にこれほど大量の知識を母語化することはなかった 。

図1:世界主要言語における技術書の累積出版数(1870年と1910年の比較)(Juhászら(2024)による分析)。1870年時点では技術書の84%が英仏独伊の4言語で書かれており、日本語のバー(灰色)はほぼゼロに等しかった。しかし1910年には、日本語(黒色のバー)が英語を上回り世界第2位の規模となっている。これは欧米以外の言語では突出した成果である。

こうした知識の母語化により、日本人は英語等の外国語ができなくとも最新の学問にアクセスできるようになった。事実、明治政府の翻訳政策のおかげで「英語を本格的に学ぶことができないような一般人であっても、母語である日本語のままで一通りの学問を学ぶことができる」ようになり、これが明治以降の日本の飛躍的発展を支える前提となったと指摘されている 。言い換えれば、知識へのアクセスが国民全体に開かれたことで、初等教育を受けた庶民でも努力次第で高度な情報に触れ得る社会が形成された 。これは当時の日本にとって極めて重要な「人材育成の土壌」となり、多くの人々が自己の能力を磨いて近代国家の建設に参加することを可能にした。

この成果は国家のイノベーションと経済発展に直結した。日本語による知識体系が整備された結果、日本経済は欧米から輸入した産業革命期の技術を自国で消化・応用することに成功し、1880年代以降、産業構造は急速に農業中心から工業中心へと転換した 。例えば輸出に占める工業製品の割合は、1880年頃には2割程度だったものが1920年には7割近くにまで上昇している 。これは日本が知識の自給自足を果たしたことで、経済的にも自立した近代工業国へと脱皮できたことを示している。

要するに、明治日本は「国語インフラを強化することにより近代化を達成した」典型例である 。西洋の学問を母語で体系化し、大衆化したことが決定的に重要であったことは、近年の研究でも実証されている。Réka Juhászら(2024)の研究によれば、19世紀末~20世紀初頭において技術知識が母語で利用可能だった国ほど産業上の競争力が向上し、そうでない地域では逆に先端産業への適応が遅れたことがデータで示されている 。日本はまさにその好例であり、国を挙げた知の言語化が国力の基盤となったのである。

ポストコロニアル諸国との比較:言語の壁と教育の格差

明治日本とは対照的に、多くの植民地経験を持つ国々や発展途上国では、独立後も高等教育・行政に旧宗主国の言語(英語・フランス語など)を用いる状況が続き、自国語による知識体系の構築が遅れた例が少なくない。この「言語インフラの弱さ」は、知識へのアクセスや教育の公平性に深刻な影響を及ぼしている。

まず歴史的に見ると、ヨーロッパ以外の地域ではしばしば知識が特権的な外国語で独占され、大多数の人々から隔絶される構図が生まれた。植民地時代のインドやアフリカ諸国では、西洋式の高等教育は英語やフランス語といった植民地語で行われ、これを習得できる限られたエリート層のみが近代知を手にすることができた。これは中世ヨーロッパでラテン語だけが学問言語だった状況にも似ている。当時のヨーロッパでは「普遍語」ラテン語によってのみ学問が行われており、ラテン語を修得できた少数の特権階級(当時のグローバル・エリート)が知を独占し、ラテン語を解さない庶民は学問に一切アクセスできなかった 。同様に、植民地期から現代に至るまで多くの国で英語などが新たなラテン語=知の門番(ゲートキーパー)となり、言語能力が知的機会を決定づけている。

その結果、言語能力による教育の階層化が生じている。高度な知識が外国語でしか得られない環境では、幼少期からその言語に親しみ十分な能力を身につけた人(多くは都市部出身や裕福な家庭の子女)が高等教育や専門職に進む一方、母語のみしか話せない大多数は途中で脱落してしまうという構造である。例えばインドでは英語が高等教育やIT産業の事実上の公用語となっており、英語中熟者がホワイトカラー職を独占する傾向が指摘されている。同様の現象はアフリカでも見られ、大学教育を英語・フランス語で行う国々では農村部や低所得層の学生ほど言語の壁に阻まれやすい。こうした言語政策は、「エリートにはチャンスを、その他大勢にはハードルを」という結果を生み、社会の不平等を固定化するおそれがある。

世界的な統計も、言語と教育格差の問題の深刻さを物語っている。UNESCOの報告によれば、世界人口の40%は母語で教育を受けられておらず、自分が理解できない言語で授業を受けている 。そして「自分が理解できない言語」で教えられることは子どもの学習に明確に悪影響を及ぼし、特に貧困層の学習達成度を下げると指摘されている 。実際、複数の国の調査で、自宅で話す言語と学校の言語が異なる子どもほど読解や算数の基礎が身についていない割合が高くなることが示されている 。さらに多民族国家では、学校で支配的言語(公用語)を押し付けることが社会的不満や格差に繋がってきた例も多い 。言語が違えば教育成果も異なる──この現実は、グローバルな教育課題として認識され始めている。

特に高等教育や先端知識に目を向けると、言語の壁は一層大きな影響を及ぼす。タイを例にとれば、国内の大学で提供される高度専門教育や論文の多くが英語資料に依存している。しかしながらタイの成人の英語習熟度は低く、EF英語能力指数(2022年)では世界116か国中106位という「非常に低い」水準にとどまる。近年、タイ政府も国際化政策の一環で大学教育における英語使用を推進しているが、地方出身者や低所得層まで含め英語で高度教育を受けられる人材はごく一部に限られる。このように英語能力が高等教育への事実上の通行手形となっている状況では、結果として言語能力の差異がそのまま社会経済的な格差に直結してしまう。

他の東南アジア諸国も程度の差はあれ似た課題を抱える。マレーシアやフィリピンでは高等教育やビジネスで英語が広く使われ、シンガポールに至っては小学校から徹底した英語・母語の二言語教育を行っている。しかし興味深いことに、シンガポールのケースでは高度なバイリンガル環境にもかかわらず、結果として両言語で高度なリテラシー(新聞が読めるレベル)を持つ人は人口の13%に過ぎず、逆に両言語とも十分に読み書きできない「セミリンガル」が最も多いという報告もある 。これは幼少期から複数言語を学ばせても、母語・第二言語とも中途半端になる危険性を示唆している。つまり言語能力の涵養には順序と基盤が重要で、まず母語で確かなリテラシーと思考力を育むことが、結果的に第二言語習得にも資するという指摘もある 。この視点からすると、自国語で高等教育まで受けられる環境を整えることが何より重要であり、安易に教育の外国語化を進めることはむしろ国全体の人材育成力を損なう恐れがある。

まとめると、ポストコロニアル諸国や発展途上国では、「母語 vs. 外国語」という軸で教育機会に濃淡が生じている。高度知が外国語に偏在する状況は、知識の民主化を妨げ、ひいては社会の分断を固定化する可能性が高い。逆に言えば、言語インフラを強化し母語で高度教育が受けられるようにすることは、教育格差の是正と知的資本の底上げに直結する重要政策となる。

知の自給自足と知識依存:国家のイノベーションと自立性

前章までで見たように、国語による知識体系の確立度合いの差は、その国が知識を自給自足できるか、それとも他言語に依存するかという形で現れる。この違いは国家のイノベーション能力や文化的・経済的自立性に深い影響を及ぼす。

知の自給自足(Knowledge self-sufficiency)とは、自国語で高度な知識を生産・消費できる状態を指す。自国の課題を自国語で研究し、解決策を国民と共有できる国は、外部に頼らず自らの力でイノベーションを起こしやすい。例えば日本やドイツ、韓国のように、工学・医学から哲学・社会科学まで母語で大学教育や研究が展開できる国では、言語の壁が新規人材の参入障壁にならないため裾野の広いイノベーション生態系が育ちやすい。また、国民にとって身近な言葉で最先端の議論が行われることで、科学技術政策や社会問題についての世論形成も活発になり得る。知の自給自足は、言い換えれば「知的主権」を握ることであり、情報面で他国に依存しない国家の自立性にも繋がる。

対照的に、知識依存(Knowledge dependency)の状態にある国では、最先端の知見や技術ソリューションを得るために常に他言語(多くは英語)に頼らざるを得ない。他言語で書かれた文献を翻訳したり、外国語ができる専門家に任せたりしなければ最新知識にアクセスできない状況では、自国内で知識循環を完結させることが難しく、結果としてイノベーションのペースが遅れがちになる。例えば多くのアフリカ諸国では、大学の講義も参考文献も英語やフランス語で提供されているため、学生はまず外国語習得にエネルギーを割かねばならず、そのハードルで理工系人材の供給が細ってしまうとの指摘がある。また研究者も国際学会やジャーナルで発表するには欧米言語で執筆する必要があり、母語での研究発信の場が限られるため、自国の社会課題に根ざした知見が国民的議論に昇華しにくいという問題もある。

このような知識依存の構造下では、国全体が「知的下請け」状態に陥る危険性も指摘されている。他国が生み出した技術を翻訳・模倣するだけで、自らパラダイムシフトを起こすような基礎研究や独創的イノベーションが起こりにくいという懸念である。さらに、安全保障や経済政策の面でも、必要な知が他国語でしか手に入らない場合、迅速な意志決定やリスク管理が妨げられることになる。極端な例を言えば、医薬品の製造法からICTのプロトコル標準まで、自国語でまともな文献が無ければ有事の際に自立対応ができない可能性すらある。

一方で、言語依存から脱却し知の自給自足を志向する動きも各国で見られる。例えば、中国は近年AIや量子科学など先端分野の膨大な論文や教科書を中国語で整備し、国内人材の育成に活かしている。中国語は話者数の多さに加え、政府の後押しでAI時代の言語資源(コーパス)も急速に拡充しており、自国語で最新AI技術を享受できる体制を整えつつある。他方、インドなどでは多数の公用語を抱える事情もあって依然英語への依存が大きく、IT分野で世界的成功を収めながらも国内のデジタル・ディバイド(英語を解さない人々との格差)が問題化している。

結局のところ、母語による高度知の蓄積は国家のイノベーション基盤であり、他言語への過度の依存は構造的な弱みとなりうる。前述のJuhászらの研究が示すように、19世紀以降、技術知識を母語で利用できた国ほど産業競争力を伸ばし、そうでない国は恩恵を十分享受できなかった 。この傾向は情報化・知識経済化が進む現代においてますます顕著になっている。母語で高度教育が完結し、国民多数が最先端知を享受できる社会は、人材プールが広く創造的な試みも数多く生まれる。逆に言語の壁で知が限られた層にしか行き渡らない社会では、人材と発想の源泉が偏在し、国全体のイノベーション駆動力が損なわれてしまうのである。

また、知の自給は経済格差是正にも資する。母語で誰もが専門知識を学べる環境では、生まれつきの言語環境によるハンデが小さくなり、才能ある若者が等しく能力を開花できるチャンスが増える。例えば明治期日本では、地方出身でも漢学の素養しかない人々が、翻訳された理化学書で独学して技術者になる例も見られたという。翻って現代の途上国では、都市部の英語エリートだけが高度職を独占し農村との経済格差が拡大するケースがしばしば問題となっている。言語インフラの強化は教育の門戸を広げ、ひいては社会全体の包摂性(インクルーシブネス)を高める重要な鍵と言える。

AI時代における言語格差:さらなる優位性の拡大?

近年の人工知能(AI)技術の発展、とりわけ大規模言語モデル(LLM)の登場は、言語インフラが国家にもたらす影響に新たな次元を加えている。AIは知識アクセスを飛躍的に向上させるツールとなり得るが、その恩恵を受けられるかどうかは各言語のデジタル資源の充実度に大きく左右される。

現在、ChatGPTやGoogleのGeminiのような最先端LLMは対応する言語間で性能に大きな格差があると報告される。スタンフォード大学の研究によれば、主要なLLMは英語を話す15億人強には非常によく機能する一方で、例えばベトナム語話者9700万人に対しては十分な性能を発揮できず、ナワトル語(中米の先住民言語)のような話者150万人規模の言語ではさらに精度が落ちる 。この主因は訓練データの偏りにある。要するに「データ資源の乏しい言語(low-resource languages)」では、高品質なAIモデルを訓練するための文章データが絶対的に不足しているのだ 。現状では巨大モデルの訓練データの大半が英語をはじめとする高資源言語のもので占められており、数は多くともデジタル化が進んでいない言語や、書き言葉の蓄積が少ない言語はモデルが十分学習できていない。

このAI時代の言語格差は、単なる利便性の問題に留まらない。膨大な知識にアクセスし活用する能力そのものが言語によって制限される新たな情報格差(デジタル・ディバイド)とも言える状況が生まれている。英語であれば高度なAIが質問に答え知的作業を補助してくれるが、言語によってはAIの応答精度が低かったり、対応するサービス自体が提供されなかったりする。スタンフォード研究チームは、このギャップによって「AI革命から丸ごと取り残される文化や共同体が出現し、AI生成の誤情報やバイアスの被害を一方的に被ったり、英語圏が享受する経済・教育機会を失ったりするおそれがある」と警鐘を鳴らしている 。例えば医療AIが英語では診断支援に有用でも、他言語では知識不足で誤った助言しかできなければ、医療アクセスの格差が拡大するだけでなく間違った安心感から深刻な被害を生む可能性もある。教育分野でも、英語圏の子どもはAI教材で学習を強化できても、そうでない子どもは旧来の方法しか選べないとなれば将来の競争力に差がつくだろう。

AI時代における言語インフラの重要性は、「強い言語」を持つ国へのさらなる集中として現れるかもしれない。英語は言わずもがな、広東語・北京語など中国語圏、日本語、スペイン語、フランス語といったデジタルデータ量の多い言語では、それぞれの言語に特化したAIモデルの開発も進みつつある。他方、タイ語やベンガル語、アフリカのスワヒリ語などは話者数は決して少なくないにもかかわらずデジタル化の遅れからAI対応が不十分であると指摘される 。このままでは、情報革命による利益を享受できる国・言語と、傍観者に回る国・言語の差が一段と広がりかねない。

もっとも、これに対しては各国・各言語コミュニティで対応策も模索されている。大規模な言語資源を構築するために政府が主導してコーパス(大規模テキストデータ)や音声データを収集したり、オープンソースで多言語対応のモデルを開発したりする動きも出てきた。国際機関や大学の協力で低資源言語のデジタル化を支援するプロジェクトも進んでいる。AIの時代において言語インフラの充実は国家戦略の一部となりつつあり、自国語を持つ国はそれを強みにも弱みにもできる岐路に立っている。

重要なのは、AI時代においても基本は変わらないという点である。すなわち「自分たちの言葉で知識を体系化し共有できること」が、社会の包摂的発展と持続的なイノベーションの鍵であるということである。言語資源の乏しさゆえにAI技術から取り残されるなら、それは21世紀型の知的従属と言えるかもしれない。しかし逆に、自国語で高度なAIツールを使いこなし新たな知を創出できれば、その国は他に先駆けて次の産業革命をリードする力を持つだろう。AIは諸刃の剣であり、言語インフラの差異を増幅し得るだけに、各国の言語政策・教育政策はますますその重要性を増している。

おわりに:言語主権の確立がもたらすもの

以上、国語インフラが知識アクセス、教育の公平性、国家の力に及ぼす影響について、歴史と現状を横断しながら考察した。明治期日本の経験は、母語で高度な学問を行える環境を整えることが国家発展の土台となることを示す典型例であった 。対照的に、多くの国々が言語の壁によって知の享受範囲を狭めてしまっている現状も浮き彫りになった。言語はしばしば見過ごされがちなインフラであるが、教育や科学技術の発展において道路や通信網にも劣らぬ重要な基盤である。

強い国語インフラのもとでは、優秀な人材は母語で存分に才能を伸ばし、一般の人々も生涯教育や情報収集を通じて社会参加しやすくなる。知識が社会全体で循環すればイノベーションも広範囲から生まれ、経済も文化も活性化する。一方、言語能力によってアクセスできる知識に差がある社会は、潜在力を十分発揮できないばかりか、不公平感からくる社会不安も孕む。

グローバル化が進む21世紀にあって、外国語習得の重要性自体は否定できない。国際共通語である英語を学ぶことは各人にとって有益であり、他国の知見を直接取り入れるためにも有用だ。しかし、それは自国語による知的土台があってこそ活きるものだろう 。日本の明治政府が翻訳を推進した政策はまさに「各国の伝統や文化を尊重しつつ交流する国際化」の一例であり、自前の言語基盤を固めた上で世界と渡り合う戦略だった 。このアプローチが功を奏し、日本は非欧米圏で初めて近代工業国家になることができた。逆に現在、一部の国で見られるような安易な教育の英語化は、自国の知的基盤を掘り崩す危険もはらんでいる 。

最後に強調すべきは、言語は人々の心と言考をつなぐものであり、それ自体が目的ではなく手段であるという点だ。国民が自らの言葉で考え、学び、創造することを可能にする環境こそが、真の知的成熟と持続的発展をもたらす。知識を他言語に依存しないということは、単に翻訳の手間が省ける以上の意味がある。それは知の主権を自ら握ることであり、自国の未来を自分たちの言葉で描けるようになるということである。国語インフラの整備は地味な足腰づくりにも見えるが、その成果は教育の平等から経済成長、そして国際社会における発言力にまで波及する。グローバルな時代だからこそ、各国が自らの言語を磨き上げ強くしていくことが、互いに豊かな知的交流を育む土台となるだろう。それは同時に、世界の多様な文化と言語がそれぞれに輝きを放ちながら共存する未来へとつながっていくのである。

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